見どころ
応挙芸術の全貌に迫る ― 約20年ぶりの大規模回顧展
120点を超える応挙作品が一堂に集結します。初期の眼鏡絵から晩年の大乗寺障壁画まで、多彩な作品を通して応挙の画業を総合的に紹介します。
応挙が仕掛けた空間革命 ― 大乗寺障壁画を体感する
大乗寺に伝わる実物の障壁画とともに、「孔雀の間」、「芭蕉の間」、「山水の間」の空間を再現。絵画と空間が響き合う世界をご体感いただきます。
初公開、里帰り作品も ― 応挙、再発見
初めて公開される「牽牛花図」。イギリスからはセインズベリー視覚芸術センター所蔵の「虎図」が、久しぶりに日本へ里帰りします。新たな出会いと、時を経た再会。応挙の多彩な表現が、ここに広がります。
第1章
絵師応挙の誕生
(~1766)
若き日の応挙は、「主水」「一嘯」「夏雲」「仙嶺」など、時期に応じて複数の名を用いました。狩野探幽の流れを汲む石田幽汀に学ぶ一方、当時流行した沈南蘋の画風なども学びました。さらに眼鏡絵の制作を通じて培った遠近表現は、のちに応挙が独自の空間表現を築くうえで重要な基盤となります。
「のぞき眼鏡(直視式)」
神戸市立博物館
「眼鏡絵 明州津・三十三間堂図」
神戸市立博物館
「双鶴図」
明和2年(1765) 一般財団法人八雲本陣記念財団
第2章 明和
明和3~9年(1766~72)
応挙が「応挙」と名乗るのは明和3年(1766)34歳の夏からです。以後、「応挙之印」「仲選」の印章とともに、この名を生涯使い続けました。この時期に大きな影響を与えたのが、円満院門主の祐常でした。祐常との交流は、応挙が写生へ向かう一つの契機となり、祐常が日常の諸事万端を書き留めた『萬誌』には応挙の言葉も書き留められています。
「驟雨江村図」
明和6年(1769)
「秋野暁望図」
明和6年(1769)
第3章 安永
安永元~10年(1772~81)
祐常との交流を通して貴族社会とのつながりを得た応挙は、安永期には三井家をはじめとする京都の上層町人からの支持を集めました。三井家の依頼による「郭子儀祝賀図」や、親しい関係をうかがわせる「夕涼み図」などが残されています。また、40歳を迎えた頃から屏風のような大作も増えていきました。安永4年(1775)版の『平安人物志』では画家の筆頭に名が掲げられ、京を代表する絵師として存在感を高めていきます。
重要美術品「華洛四季遊戯図巻」(部分) 詞書 高橋宗直
徳川美術館
©徳川美術館イメージアーカイブ/DNPartcom
「虎図」
安永9年(1780) セインズベリー視覚芸術センター
©Sainsbury Centre, University of East Anglia, United Kingdom
「白狐図」
安永8年(1779)
第4章 天明
天明元~9年(1781~89)
天明期、応挙は名実ともに京を代表する絵師となり、各地の寺社で障壁画を次々と手がけました。愛知の明眼院、和歌山の草堂寺と無量寺、香川の金刀比羅宮、兵庫の大乗寺などに、大画面を生かした作品を残しています。複数の部屋を飾る障壁画の制作には、一貫した構想のもとで門人たちをまとめる力が必要でした。こうした大規模な制作は、円山派が画派として形を整えていたことも示しています。国宝「雪松図屏風」などの傑作が生まれた一方、天明8年(1788)の大火で応挙も被災しました。
国宝「雪松図屏風」
三井記念美術館 展示期間:11月28日~12月6日(期間限定公開)
重要文化財「山水図襖」(部分)
天明7年(1787) 兵庫・大乗寺
「牽牛花図」
天明4年(1784)
「氷図屏風」
大英博物館
©The Trustees of the British Museum
第5章 寛政
寛政元~7年(1789~95)
天明の大火後に始まった御所造営では、土佐派や狩野派などの絵師とともに、応挙も一門を率いて障壁画制作に参加しました。当時の障壁画は嘉永7年(1854)の火災で失われましたが、その制作過程を伝える下絵が残されています。御所の仕事を終えた応挙は、大火によって中断していた大乗寺の障壁画を完成させました。晩年まで大画面と向き合い、最期まで新たな空間表現を追い求めました。
重要文化財「郭子儀図襖」(部分)
寛政2年(1790) 兵庫・大乗寺
重要文化財「松に孔雀図襖」(部分)
寛政7年(1795) 兵庫・大乗寺


